制作ノート
長崎での公演当時

  多田富雄
 私の記憶のスクリーンに鮮明に映っているのは、一九五五年の夏の夕方、初めて訪れた浦上天主堂の風景である。崩れた煉瓦のアーチに首のない聖人の石像、有刺鉄線で固まれた瓦礁の残った空き地に、質素な礼拝堂が夕日にさらされていた。
人類が初めて経験した原子爆弾。被爆当時の生々しさこそなかったものの、かつて繰り広げられた惨劇を想像することは二十歳の若者にも容易だった。
それから長崎に来るたび、最初に見た風景と重ね合わせながら、天主堂の復興の軌跡をたどったものだった。まるで不死鳥のように天主堂はよみがえった。

 それはまさしく復活であった。なぜかそこには救いと希望があったのだ。
同じく被爆した広島では、印象が違っていた。そこには深い鎮魂の念の上に、後遺症に苦しむ人の怨念がいつまでも漂っていた。広島の原爆忌には何度か参列したが、何年たっても深い鎮魂と哀悼の念にとらわれるほかなかった。

 長崎は違うのだ。同じ惨禍に遭ったのに、そこには不思議な希望が感じられた。何か救いがあった。それが信仰というものがもたらしたものではないかと、私は思った。
いつしか私に「広島は鎮魂、長崎は復活」という主題が住みついた。今年〔二OO 五年〕被爆六十周年の記念に、二つの都市の被爆体験を、二つの新作能に書くことになったが、私が選んだ主題は、鎮魂と哀悼を描いた広島「原爆忌」と,復活と再生を現した「長崎の聖母」になった。

 この曲も上演に当たって、いくつかの新工夫を行った。まず天主堂の祭壇をそのまま生かした舞台設定、特にキリストの膿刑の像に光を当てその前で奇跡が起こるという荘厳、グレゴリオ聖歌を効果的に使った音楽的効果、期せずしてアンゼラスの鐘が挿入された幸運などが重なり、感動的な初演が実現された。その聞には能管とコーラスのコラボレーションなど嚇子方の努力があり、ワキ方も「キリエエレイソン」のメロディを待ち謡の中で歌うなどの試みをしてくれた。シテも狭い祭壇での早舞で、クツロギの入った厄介な舞をのびのびと舞い、感動のうちに昇天した。本当に奇跡的な舞台であった。
 
挨拶

  多田式江
 主人(多田富雄)は新作能を十作かきました。それぞれ現代性のある問題をテーマにしています。
 最初に脳死と臓器移植、韓国人強行連行、相対性理論、そして戦争三部作、広島、長崎、沖縄です。

 広島には原爆ドームが残されていますが長崎には浦上に教会内に被爆したマリア像の首だけが密やかに祀られています。

 長崎原爆能の原本を探す時長崎純心大学の被爆体験記を読み、これを基にこの能は書かれました。七十年前の瓦礫と破壊からマリアの見守りのなか急速な復興を成してきた長崎市民に被爆の記念として多田はこの能を捧げました。

 今回海外向けに短くなりました脚本で原爆犠牲者の霊への聖母マリアの祝福と平安の祈りを感じて頂ければ幸いです。
 
公演に向けて

  清水寛二
  銕仙会 能楽師
 ボストンとの多田富雄先生の新作能との御縁。 2007年よりのワークショップはじめ多くの方々のお力添えが積み重なり、今回『長崎の聖母』を上演できますことは、出演者関係者にとりまして大変嬉しいことです。

 長崎の方々からは「あの日から70年、能の力で、原爆というテーマについて自分たちの思いを伝えてほしい」と言われていますが、必ずこの舞台には何ものかが立ち現れるはずです。一期一会の舞台、皆様どうぞお待ちしています。
 
開催に寄せて

  岩崎敬
  一般(社)自然科学とリベラルアーツを統合する会 代表理事

 多田富雄は自然科学者であり、新作能の作家でもありました。彼は自然科学者として自然現象に対する深い敬意と恐れを持ち、それを背景に人の心にも深く寄り添い社会の不条理に激しく立ち向かう信念を持ち続けていたと思います。
 その気持ちを強く表現した新作能が「沖縄残月記・ 原爆忌・長崎の聖母・一石仙人・望恨歌 」で、長崎の聖母はその代表作です。だれも創造すらできなかった悲惨な長崎の街、そこからの復活を誓うことから、今生きる我々が平和に向けて生きていく責任を訴えています。

 多田がこれらの能を創作した頃とくらべ、現代の世界はさらに危機が増しています。原爆だけでなく原発、国家の争いだけでなく民俗や宗教にかこつけた争いなど、長崎の聖母を、今年NYで公演することには、大きな意味があると感じています。

 今回のNY公演は、長らく多田富雄が願っていたものです。この時代にNYから世界の皆様にお伝えすることができるようになり、多田も大変喜んでいると思います。
 シテ方である清水寛二さんは、これまで多くの多田富雄の新作能に携わり演じてきて頂きました。NYの舞台での清水さんの発する強いメッセージに期待しています。さらにNYやボストンで行われる能ワークショップを通して、我々の心の奥底に潜んでいる精神性も併せて伝えてきて頂けることと期待しています。

 今回の公演活動を御支援くださっている、ジャパンソサエティ他、多くの方々に御礼申しあげます。

 
ボストン開催に寄せて

  細田満和子
  星槎大学 副学長

 この度、故多田富雄先生の新作能「長崎の聖母」がボストンで上演されることを心から嬉しく思います。多田先生は免疫学者にして新作能の作家であり、病を得た後も旺盛な創作意欲は衰えることなく、ますます広い知識に基づいた深い思索を展開されていらっしゃいました。
 多田先生はあるインタビューに答えて、「長い闇の向こうに希望が見えます。そこには寛容の世界が広がっています。予言です」とおっしゃっていました。寛容の世界とは、相手を認め、排除することなく受け入れて、共に生きる社会のことなのではないかと思います。

 「長崎の聖母」は、能という形式を通して寛容の世界を表し、その具現化に私たちを誘っているように思われます。皆様ぜひ足をお運び頂き、能の世界に浸ってみて下さい。